学びなおしたいけど、分厚い本はちょっと…という社会人の方に
とにかく簡潔にわかりやすく日本史を学んでいくよ!!
本日のポイントはこちら!
① 米作りが戦いを生んだ!?
② 金属器の登場(青銅器と鉄器)
③ 田植えの始まり
米作り(稲作)が争いをもたらした
縄文時代の後半には水田稲作が伝わりました。
すると西日本を中心に定着し、水稲耕作を基礎とした弥生文化が誕生しました。
米の生産は食料に対する不安をなくしてくれましたが、良いことばかりではありませんでした。
悪い点として挙げられるのが、争いをもたらしてしまったということです。
どういうことかって?簡単に説明しましょう。
今まで中心の食料であった「肉や果実」と「米」の決定的な違いは、
保存がきくという点です。
保存がきく=貯めることができるということです。
つまり、たくさんのお米を貯めることができた人は今でいうお金持ちということです。
このお金持ちが貯めた米を奪いあうということが始まってしまいました。
米の生産が、人々の争いを生むという結果になってしまったんだね。
これまで見られなかった暮らしの工夫が!金属器も登場
縄文時代の土器は縄文土器でしたね。
弥生時代に入ると土器の形も更に色々なものがでてきます。
貯蔵用や煮る用として、さらに盛り付け用の土器として作られました。
これらの土器は「弥生土器」と呼ばれます。
東京都本郷の弥生町でつぼ型の土器が発見されたことから
こう呼ばれるようになったみたい!
住居はこれまでと同じ竪穴住居でしたが、
生産物の貯蔵のために高床倉庫が作られるようになりました。
ネズミの被害や湿気から守るために考えられたんだね!
ただ、この生産物をめぐって争いが起きてしまったことは
すでにお伝えした通りです。
そのために倉庫や住居を囲って守る環濠集落が作られることがあったようですね。
金属が使われるようになったのもこの時代です。
青銅器は壊れやすいものの、美しい光沢をもっています。
神に捧げる祭りに使われていたようです。
地域により、銅鐸や銅剣、銅矛など異なった形状の祭器が見つかっています。
また鉄器は丈夫だったため、農具などに使われるようになりました。
墓などの規模を見ると貧富の差があったことがわかっています。
稲作のやりかた
稲作は当初、もともと水に浸かり、湿気のある低湿地で行われていました。
このような土地を湿田といいます。
徐々に、水が浸かっていない土地に水路で水をひいて作る
乾田で稲作が行われるようになっていきます。
必要に応じて水を調整できるので、土地の栄養を無駄にせずに済んだんだね!
作業効率UP!
また、道具も改良がすすんでいきます。
初期は木製の鋤や鍬でしたが、中期以降は先端が鉄製になり作業効率が格段にあがりました。
現在との違いとしては、稲の成長速度がバラバラで
一気に刈り取ることができなかった点ですね。
そのため、一つ一つの穂先を手で摘み取らないといけないという大変な作業が待っていました。
石包丁という磨製石器を使用して穂を摘み取る、穂首刈りが一般的だったようです。
後期には、苗を育成して植え付ける田植えが始まりました。
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